卵で一句。(2009年9月2日執筆)

バスで幼稚園に通うことになった。
今思えば、すぐそこなんだけど、幼きボクにとってそれは旅のように感じた。
先生、お友達、お遊戯、すべてが新鮮で生まれて初めて接する社会であった。

「今日のおべんとなんですかー!」

みんなで大合唱してお弁当の蓋を開ける。
多くの園児のお弁当には蛸さんの形をしたウインナーや卵そぼろで絵が描いてあった。
かわいらしい巾着袋に包まれたお弁当が大半だったのに反し、ボクのお弁当は広告で包まれて真ん中には梅干しが入っていた。

ボクだけ日の丸弁当だった…。

「おかーさん、卵のやつかけてないやん!」
「みんなのは卵のやつかかってるのにボクのだけかかってない!」

生まれて初めて社会に接したボクは、みんなのお弁当と自分のお弁当の相違について母親に指摘をした。
白いご飯の上に黄色に輝いたパラパラの卵そぼろが振りかけられたお弁当がうらやましくって仕方がなかった。

ある朝、耳元で母親が今日のお弁当は楽しみにしていくようにとボクに囁いた。

「今日のおべんとなんですかー!」

お弁当の蓋を開けようとした。
ん?お弁当から汁が漏れ出して包んだ広告を濡らしている。
ボクは構わずにお弁当の蓋を開けた。
そこには黄色に輝いたパラパラの卵そぼろではなく、刻んだ蒲鉾と玉葱が半熟の卵とじられた物体が白いご飯の上に乗っていた。

パラパラではない。
むしろじっとりとしている。
黄色く輝いていない。
むしろ半熟である。

なるほどこれはお友達のお弁当に乗っていたものではない。
幼きボクにでもそれは瞬時に理解できた。

そう理解した瞬間、ボクは泣いた。
涙枯れるまで号泣した。

事情を知った園長先生はボクを園長室に連れて行った。
お弁当を食べなかったボクにサンドイッチを買ってくれた。
泣き止んでサンドイッチをひと口食べた瞬間、大人の辛子の味がして、また泣いた。

振り返れば、あれは完全に玉子丼だった。
いや、もっと正確に言えば木の葉丼といううどん屋さんにあるメニューであった。
きっと母親はそぼろ卵というものの存在を知らなかったのだろう。
幼きボクもそぼろ卵という言葉も知らず、見よう見まねで伝えたものだから、うまく友達のお弁当を再現できなかった。

確かに4歳児のお弁当が玉子丼というのはあまり想像つかないかもしれない。
でも母親は幼きボクのリクエストに必死に答えてくれようとした結果であり、いま思えば感謝してもし尽くせない。



多謝玉子丼幼僕
(ボクが幼き日の玉子丼よ、大切なことに気がつかせてくれて、本当にありがとう)

因製歌曲一首
(よって私は一首の歌を作り)

代卵述意
(卵の心情を代わりに述べてみようと思う)



汁したたる 半熟不器用 そぼろめし  形ちがえども 母なるしん愛


(大意:お弁当から汁が滴っている時点で 丼の気配がする 蓋を開けると確かに半熟の卵+刻んだ蒲鉾 幼き私が望んだそぼろ飯とは違う 同じ卵でも形は違うが 私が望んだことに なんとか答えようとする 母親の不器用な愛をいま思へば その深さ、真さに 胸を打たれてならない これを親愛 または信愛 というのだろう)


掛詞:しん愛 (親愛、信愛、深愛、真愛)



今日も走りまっせ。